LPB4 ふるさととやま 歴史紀行 第4回を実施しました。 [更新日:2025年8月8日] 日 時 令和7年8月4日(月)13:30~15:30 会 場 高岡地区センター学習室 内 容 高岡城と近世高岡の町づくり 講 師 高岡市立博物館 主査学芸員 宇川 恵里 氏 【講座の概要】 1. 高岡城の築城から廃城まで 慶長14年(1609年)、加賀前田家2代当主・前田利長の隠居城であった富山城が大火で焼失したことを受け、利長は未開拓の原野「関野(ヶ原)」に新たな城と町を築くことを決意し、「高岡」と命名した。利長は有事に備え、自身にとって有力な拠点を早急に必要としていたため、わずか半年という異例の突貫工事で進められた。入城3年後にも、書院廊下用の畳の調達を命じるなど、城はしばらく未完成であったといわれている。本丸を取り巻く郭が全て「馬出」(当時最強の攻撃・防御施設)として機能する理論的な城として高岡城を築城した。縄張(設計)は当時の最先端であった。利長は、慶長19年(1614年)に病で死去した。その後、幕府により「一国一城令」が発せられ、1609年の築城からわずか5年で高岡城は廃城となった。2. 高岡町の成立 利長は、城と町の建設のため、旧城下である守山や木舟から商人や職人を呼び寄せ、城下町を開いた。加越能三国や、現在の愛知、滋賀、長野などからも人が集まり、利長は土地を無償で与えた。町名は成立順、旧城下、職業、人名、地形、軍事施設などが由来になった(一番町、守山町、金屋町、源平板屋町、片原町、御馬出町など)。 寺社の持つ広い境内が有事の際に防御施設として活用できる点を考慮し、日蓮宗と浄土宗の寺院は主要道路沿いに、曹洞宗と真言宗の寺院は市街地南端の寺町に配置された。浄土真宗寺院は一向一揆の拠点となることを防ぐため、市街地内に配置された。3. 高岡町の発展 高岡城の廃城後、家臣団や町人たちは町を離れ、高岡町は急速に衰退し始めてしまった。しかし、利長の遺志を継ぎ、3代当主・前田利常は、高岡を城下町から商工業の町へと転換させる政策をとった。利常は、北陸道のルート変更や寺院の配置変更などを行った。また、魚問屋や米蔵・塩蔵を設置し、高岡を物資が集散する拠点として整備した。4. 明治の高岡城跡破壊の危機と公園指定 明治5年(1872年)頃の高岡城跡落札区分図があり、そこには延べ157名の落札者の名前も書かれており、高岡城跡は払下げの危機に直面していたことが窺える。明治7年に、高岡町民の築城以来260余年間、誇りとしてきた城跡を守りたいという強い思いを受け、公園指定請願書が提出された。そして、明治8年に城跡は「高岡公園」として指定され、無事に保存されることとなった。 【受講者の感想】 ・昭和までの流れを分かりやすく教えていただきました。軍事的要素を持つ時代から商工業の町へと、高岡の姿が時代の移り変わりとともにどのように変遷していったのか、資料や解説のおかげでより理解が深まりました。ぜひ博物館でも実際の資料を見学したいと思いました。 ・高岡城はお城としての使用期間は短かったものの、現在の町づくりの原点として非常に大きな意味があることを改めて認識することができました。 ・分かりやすく、楽しいお話でとても良かったです。事前に「高岡古城公園の150年」を見学していたため、より理解が深まりました。 ・分かりやすいご説明と、見やすく整理された資料が素晴らしく、学んだ内容がしっかりと頭に入りました。本日の資料は、私の学びの証として大切に保管させていただきます。 LPB4「ふるさととやま 歴史紀行」は今回で最終回となります。 ありがとうございました。 お問い合わせ先 高岡地区センター 〒933-0023 高岡市末広町1-7 ウイング・ウイング高岡7F 電話番号:0766-22-5787 FAX番号:0766-22-5872