つながるふるさと学びコース「越中の歴史」 第3回を実施しました。 [更新日:2025年8月28日] 日 時: 令和7年8月9日(土)13:30~15:30 会 場:県民カレッジ砺波地区センター 第2学習室 講 師:京都女子大学文学部史学科 講師 萩原 大輔 氏 講座題:「謙信越中襲来!「義の英雄」を捉えなおす」 講座風景 京都女子大学文学部史学科 講師 萩原 大輔 様 を講師にお招きして、「謙信越中襲来!「義の英雄を捉えなおす」と題し、ご講義いただきました。 以下、講義の一部を掲載いたします。 上杉謙信は義を重んじ正義感が強く、自らの野心では決して領土を広げないといった戦国時代を代表する英雄のイメージがある。歴史を読み解きそのイメージを捉えなおしてみる。 謙信軍の兵火を受けた伝承をもつ寺社は富山県内に57ヶ所、石川県内には90ヶ所ある。また、自分が帰依していた真言宗の寺も焼き払っていることは、神仏を深く崇敬していたという謙信像からは衝撃的である。 謙信は北陸に11回(うち10回が越中)出馬しているが、永禄3年(1560)、初めての越中出馬へ臨む経緯を記した手紙には「不携弓箭候、只々以節目、何方へも致合力迄候」(私は依怙贔屓によって戦いは仕掛けない。ただ物事の道理を守ったうえで、どこに対しても力を貸すだけだ。)と記し、別の手紙では「長職色々被歎候間 不図出馬」((神保)長職氏が何回も助けてくれとお願いしているので、仕方なく越中を攻めた。)などと書いている。謙信が義の武将と言われる所以と捉えられているが、出兵は稲の収穫期が多く国境を越えてすぐの近い戦場ではほとんど作荒らしか収穫狙いの短期戦であり、食うための戦争=出稼ぎ戦争だととらえる歴史学者もいる。 元亀2年(1571)、出馬前の神仏に対する願文には「春二三月中、越中江馬を出し、留守中、当国・関東、無何事無事二而、越中存侭、明年一年必日々看経可申候」(春3月までに越中へ攻め込む。その留守中に越後や関東が何事もなく平穏無事で、越中が思い通りになれば、来年1年間は毎日欠かさず経を読むつもりだ。)、別の願文では「賀州・越中之凶徒、悉退散、雑意消失、越中・信州・関東・越後、藤原謙信分国」(加賀・越中の悪い奴らことごとく目の前から消え失せろ。越中・信州・関東・越後は自分の領土である。)とあり、同盟勢力の要請に応じた出兵という形から、越中を自分の「分国」(領土)と捉えた侵略戦争へと質が変わっていることがうかがわれる。 謙信は天正4年(1576)には越中をほぼ掌握し領地とすると、天正5年9月能登半島に攻め込み七尾城を攻め落とす。手取川の戦いで信長軍に大勝し、奥能登勢力の最後の拠点松波城も落とし、能登も平定した。この段階で、越後、越中、能登、加賀の手取川(小松)より東が全部謙信の領地になり、謙信は生涯で最大の領地を持った。 同じ上杉謙信だが見方によって捉え方は変わり、北陸から見たその人物像は「食うための戦争」を仕掛け、義を重んじることを名目に侵攻を重ねる戦国武将、ついには越中を完全な「分国」に組み込んだ侵略者と見ることもできる。いずれにせよ、現在まで残る様々な伝承にその影響の大きさを読み取ることができる。 古文書も読み解きながら、謙信のイメージを捉えなおすきっかけを分かりやすく与えてくださいました。 --------------------------------------------------------------------------- 受講者の感想 ・学校で習った歴史について上杉謙信のイメージがひっくり返る様なテーマで大変興味深く聴くことができて良かったと思います。戦国武将が神仏に帰依した天使であるはずがないというのは大いに賛同できる点と感じました。歴史に興味を持つきっかけとなりそうです。 ・謙信の北陸出兵の一覧を見てその多さに驚いた。語り口が絶妙で理解しやすく参考になった。信玄に比べて謙信に親しみをもつのは、北陸への出兵の多さゆえであるかもしれない。時間いっぱい熱心に話していただき感謝している。 ・身近な富山県の話も歴史から読み解き、分かりやすくお話していただきました。これからも色々なテーマで講座を開いていただきたいと思いました。歴史資料からも多くのことを読み解かれていました。とても分かりやすいお話でした。 --------------------------------------------------------------------------- お問い合わせ先 砺波地区センター 〒932-0114 小矢部市清水95-1 電話番号:0766-61-2020 FAX番号:0766-61-2008