つながるふるさと学びコース「ふるさと富山の歴史裏話」 第3回を実施しました。 [更新日:2023年11月17日] 期 日:令和5年11月10日(金) 13:30~15:30 講 師:富山県公文書館 資料課長 細川 精樹 氏 講座題:「富山県の誕生と明治・大正期の富山」 講 師 富山県公文書館 資料課長 細川 精樹 氏 明治初期の版籍奉還・廃藩置県の後、行政区分の統廃合により、現在の富山県と石川県、福井県の一部は石川県としてまとめられた。山からの急な傾斜や短い距離を一気に流れる越中の五大河川(小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川)は、洪水を起こす暴れ川だった。少ない土木費を道路整備や建物の建設費に充てたい加賀能登側と、水害の治水対策に充てたい越中側には大きな隔たりができた。石川県議会は越中出身が22人に対して、加賀能登出身が47人であり、越中側の意見は通らないため、砺波出身の石埼謙が『分県の議』を、越中改進党の米澤紋三郎や入江直友らが『分県の建白書』をそれぞれ中央政府に提出した。明治16年5月9日、石川県から越中国を分け富山県とすると通達が出され、富山県が誕生した。 河川の改修については、オランダ人技師のデレーケが基本的な治水方針を立てた。また、安政五年の大地震で大鳶山が崩れた影響で、河川が決壊し富山市が大洪水になった。治水対策の基本として、護岸工事(=砂防)の必要性から国の補助を受けて白岩砂防堰堤(重要文化財)などが整備された。 金岡又左衛門と密田孝吉は、私財を投じ神通川流域の大久保発電所の事業に貢献し、第16代知事井上孝哉が、洪水が頻繁に起きるほど河川の流れが急ならば、その力を水力発電に利用すれば良いとの基本方針を打ち出し、水力発電の庵谷第一発電所を造った。庄川流域でもダム建設が進められ、その電気を富山湾まで運び、大企業を誘致した。第17代知事東園基光もこの方針を受け継ぎ、軽金属を中心に臨海工業地帯が形成された。先人の長きに亘る努力が、県民を苦しめていた河川を、産業の発展に関わる大きな力に大変換させた、まさに『転禍為福』(災い転じて福となす)である。 北陸本線は、1892年(明治25年)鉄道敷設法が公布れ、国の下で整備されることになった。そこで、砺波平野で作った米や農産物を、高岡と連結し北陸線で関西方面に運ぶため、大矢四郎兵衛の尽力で最初の中越鉄道(今の城端線)は福野-黒田間が開通した。藤井能三氏は、中越鉄道をさらに伏木まで繫げ、三菱、三井と協定して大きな船で東京方面や関西方面まで物資を運ぶなど富山の産業発展に貢献した。 庄川の木材輸送を目的にした加越鉄道は、津沢出身の津島吉六氏の尽力により、庄川から井波、福野、津沢を通って石動までを繫げた。また、呉東の鉄道は、佐伯宗義氏が富山地方鉄道株式会社として発足させた。 (受講者の感想) ○江戸時代末期の安政の大地震からの復興が富山県の誕生に繋がり、結果治水が進み、さらに水力発電など近代富山県の発展に繋がっていったことが分かって、感動しました。先人の方々の努力に頭が下がる思いです。 ○富山県の近代史においては、学校では教わっていないので、たいへん面白く聞かせていただき有り難かった。電力の発展により、農業生産より工業生産の方が上がったということもよく分かった。 ○富山県が誕生して、治水対策や発電事業、鉄道事業に尽力した人がいて、現在の富山県があると分かった。私財を投じて世のために尽くした人がたくさんおられて、立派だと思う。 お問い合わせ先 砺波地区センター 〒932-0114 小矢部市清水95-1 電話番号:0766-61-2020 FAX番号:0766-61-2008