LSC87「ふるさとの祭り~伝統の継承~」第1回を実施しました。 [更新日:2026年10月14日] 日 時 令和8年10月10日(土)13:30~15:30 会 場 高岡地区センター学習室 内 容 伏木曳山祭~誇れる故郷の寶を次世代へ~ 講 師 伏木曳山祭実行委員会 研究部会 野 口 安 嗣 氏 【講座の概要】 1 伏木の歴史的環境 ~曳山を育んだ歴史~ 律令時代以前の伏木地域は、「越」の国の文化圏にあった。奈良時代に「越中」と改称されたことが『続日本紀』などの文献に記されており。その中に田口年足、大伴家持などが越中守と記されている。「ふしき」の地名は、射水郡「布師(ふし)」郷に由来する、「府敷」(国府の址の敷地)に由来するなど諸説ある。鎌倉時代になり守護大名が勢力を強め、越中での政治・文化の中止も国府所在地(伏木)から守護所所在地(放生津)へと移っていった。室町時代以降、畠山氏が守護職を世襲した。越中の政治は、守護代に任されており、射水郡は神保氏が統治をおこなっていた。その後、江戸時代になり、加賀藩や勝興寺の保護を受けた「ふしき」が大きく発展していった。 2 伏木港と廻船問屋 ~曳山創設の土壌~ 古代において、伏木は「亘理(わたり)湊」と呼ばれ、都への貢納物を敦賀、塩津、大津経由で平安京へ運んでいた。中世には日本海交易の拠点は放生津へと移っていったが、戦国時代以降、伏木が再び発展していった。その背景として、前田利長が高岡城築城の際、能登の材木を伏木へ運び込んだことや佐渡との交易に13艘の船に通行許可証を与えたことなどがある。加賀藩は越中における主要港として神通川を挟んで川西七浦、川東七浦を指定しており伏木は川西七浦の一つとして発展していったと考えられる。江戸時代後期には戸数524軒を数えるまでになった。その発展を支えたのが北前船の船主である船問屋で、江戸時代中期には8軒問屋と呼ばれる商人が莫大な利益を上げていった。こうした廻船問屋は、航海の安全や海岸鎮護を祈って、神社に鳥居や灯篭を寄進したり、祭りをつかさどったりした。明治時代に入り、北前船は徐々に衰退していったが、藤井能三により伏木港の近代化が進められた。また、中越鉄道の開通を機に、沿線に多くの工場が進出し、伏木港周辺に臨海工業地帯が形成されていった。 3 伏木の神社 1)気多神社 「気多」の地名や神名は出雲国から越後国にかけて多く見られ、いずれも出雲大社の祭神である大己貴命(おおあなむちのみこと)を祀っており、この地域は深いつながりがあったと考えられる。 2)伏木神社 春季例大祭で曳山祭を実施している神社である。1813年に伏木村の海辺から一宮村の現在の地(国府別館の跡地)に遷座した。当時、曳山祭は秋季大祭の際に行われていた。 4 伏木曳山祭 ~故郷の寶を次世代へ~ 日本には、「山」は畏怖に満ちた存在であり聖なる場所であると考え、「山」自体を神とする信仰があった。この「山」の神様を里や町に迎える行事が「築山行事」であり、その築山に車輪をつけて曳いたのが「曳山」である。山型「ヤマ」の上に柱「ホコ」をたて、柱の頂上に依代「ダシ」をつけたものが「曳山」である。越中の主な曳山は、高岡の御車山をはじめとして県西部に多く見られ、港町や宿場町、商業地に分布している。その理由は、それぞれの町の経済的発展とともに曳山が造られ、曳山祭は町衆の経済力の象徴であったからだと考えられる。 伏木の曳山は、当初は9月に実施されていたが、大正6年からは春季例大祭で実施されるようになった。昼は花山車と母衣武者行列、夜は提灯山車(通称「けんかやま」)である。現在伏木には、7基の山車がある。七福神を福神として祀っている。次世代に引き継ぐため、花山車のライトアップや女性の曳き子の参加を認めたりしている。また、子供たちが法被を着て山を曳いたりしている。余興の「かっちゃ」は、本町広場と法輪寺前の2か所で実施されている。(能登半島地震以降は、道路復旧などの影響により1か所で実施) 【受講者の感想】 ・伏木の歴史について詳しくお話しいただき理解することができました。曳山祭に関しても同様に理解することができました。毎年テレビ中継で見ていますが、できれば現地へ行きたいです。 ・伏木曳山祭の伝統について、映像を交えた明解なお話を聞くことができ、野口先生の心のこもった熱意が伝わってきました。私自身勇み立つ思いで今日の講座に聞き入りました。 ・伏木神社の遷座の際に執り行われたであろう曳山祭の経緯、歴史をわかりやすく講義されよく理解できました。 【次回のお知らせ】 日 時 令和8年11月7日(土)13:30~15:30 会 場 高岡地区センター学習室 内 容 ふるさとの宝〜おわっちゃの祭りと若者たちの挑戦〜 講 師 越中祭青年会 発起人・広報担当 五十嵐 友輔 氏