

■野口良作―椚山の海軍士官をたどる 令和8年5月
資料作成 野口 豊
(良作氏の孫、現在、海上自衛官、護衛艦「あぶくま」艦長)
<はじめに> 米田幹雄(椚山新)
令和7年末、うるおい館から「野口豊という方が連絡を取りたがっている」との知らせを受けました。早速メールを差し上げたところ、豊氏は野口良作氏の孫で、以前から祖父の生涯に関心を持ち、調べる中で私の名前に行き当たったとのことでした。
私の祖母は椚山の池原正一(故人)宅から嫁いでいますが、野口良作氏の兄の家にも池原家から嫁いでおり、従来から親戚としてのつながりがありました。私は父から、若くして出世し戦死した良作氏の話を折に触れて聞いており、定年後に関わった昭和史研究のセミナーの一環として、令和5年に「昭和17年の戦没者を考える―野口特務大尉の場合―」と題した講演を行いました。その予告記事がネット上に残っており、豊氏の検索にヒットしたのが今回のご縁の始まりでした。
その後、私は良作氏の実家である昇さん(故人)宅に残されていた遺品の写しや、知り得た資料を豊氏に送り、メールでのやり取りが始まりました。すると豊氏は一気に史料編纂に取りかかり、年末年始の休暇を使って情報収集と整理を進め、休暇明けにはパワーポイントにまとめた資料を送ってくださいました。その調査範囲、収集資料の量と質、まとめ上げたスピードはいずれも驚くべきものでした。
椚山の歴史の一端として、多くの方に良作氏の生涯を知っていただき、心のよりどころとしていただければと願い、この資料を椚山公民館ホームページ「ふるさと資料」に掲載し、広く閲覧を呼びかけることとしました。ご要望があれば、講演の開催についても後日調整してみたいと考えています。
<概 要>
明治35年椚山村で誕生した良作さんは、幼少の頃から達筆で算学に優れていました。しかし椚山尋常小学校卒業後は故あって進学を断念し、苦学の末に舞鶴海兵団へ入団しました。実力を認められ、当時海軍最高峰であった江田島海軍兵学校の受験を推挙されて合格、海軍将校となりました。将校となった後は江田島海軍兵学校の教官を務め、太平洋戦争勃発後は巡洋艦「天龍」の掌砲長として各地を転戦。昭和17年10月、ニューギニア・ラバウル港での爆撃により戦死されました(享年42)。翌年2月には舞鶴鎮守府で「故海軍特務大尉野口良作外」として合同葬が営まれ、椚山小学校でも村葬が行われました。松井石根陸軍大将が忠霊塔で哀悼を捧げる写真が野口昇さん宅に残っています。
(公民館に資料のプリントファイルもあります。パワーポイント42ページほか)
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