| 第6回 農家の手仕事
〜菅笠作りとソウケ作り〜 日 和 祐 樹
笠の使用と加賀笠 蓑笠といえば雨天の外出に欠くことのでさない用具であった。笠は雨天だけでなく雪中や日差しにも使われ、両手が自由になるから外仕事にはきわめて便利な実用品であった。 福岡町は江戸時代から笠どころとして知られており、山間地を除いてほとんどの家が笠作りに従事してきた所で、品物は「加賀笠」として全国に販売されてきた。
どのように 軽く見えても皆人の下には置かぬ 加賀の菅笠
これは文久3年(1863)に加賀藩主前田斉泰(なりやす)が14代将軍徳川家茂(いえもち)に従って入洛した時、朝廷より厚遇されたことを風刺して京都に流れた風評である。菅笠は加賀藩の主要移出品であり、藩主が菅笠に譬えられるほど全国に知れわたっていたのである。
川の氾濫と沼地での菅栽培 福岡町は面積の約3分の1が宝達山丘陵地を成し、3分の2が砺波平野の一画を成す平野部である。平地の中央には小矢部川が西から東へと流れており、戦国時代までは庄川も砺波平野を北上して福岡町で小矢部川と合流していた。江戸時代になってもたびたび水害に襲われ、耕地整理が行われるまでフコと呼ばれる沼地が多く残っていた。菅草はこのような低湿地に自生していたもので、古くはそれを利用して蓑作りを副業とする人々もあったと伝えられている。 福岡町で菅笠が作られだした時期ははっきりしないが、慶長13年(1608)に伊勢の国(現、三重県)から大野源作が町内に移住し、伊勢笠の製法を教えたのが始まりといわれている。その後近江や越後の人によっていろいろな形の菅笠が伝授されていったようである。 菅の需要が伸びると次第に栽培面積も増え、江戸時代中期には山沿いの村や平野部も、ほとんどの村で作られていた。菅はどんな陰地でもよく育つので、水田の不適地にも栽培できる利点があった。また、一度植えると3、4年はその古株から出る新芽を間引きするだけで、手入れや刈取り期が農閑期であるのも都合がよかった。 菅は2メートルほどに育ったのを夏土用に刈り取り、先端を切り捨てて1把ずつそろえ、3日間ほど広げて乾燥させるが、場所は道路縁や社寺の境内、なかでも小矢部川の川原が最適地であった。天日で充分乾燥することによって色艶よく仕上がり、製品も良いものになる。
笠骨作り 菅笠の製作には竹を割って笠骨を作る仕事と、笠骨に菅を当てて縫いつける仕事があり、昔から笠骨作りは男の仕事、笠縫いは女の仕事とされてきた。 笠の形には大野笠・三度笠・玉子笠・富士笠・一文字などの名称で、三角形や半球形のものがあり、寸法も数種類あるが作る要領は一緒である。道具は竹・ナタ・小刀・竹のこぎり・目刺し・糸・火鉢コンロ・炭・ヨリコ(細い菅)などである。笠骨は笠の大きさを決める「がわ竹」と、形を作りあげる「中竹」、小骨と小がわ竹とでできている。 側(がわ)竹は笠の外縁になる部分で、孟宗竹を必要な寸法に切ってナタで小割りし、幅1センチほどのものを小刀で面取りし、両端を削って一部重ね合わせて円形にする。つぎ目はヨリコを巻きつけて止める。中骨をさしこむ爪穴を作るため、目刺しで輪の内側から外側の竹の皮面に向けて斜めに穴をあけておく。 中竹は笠の種類による特徴的な形を作るものであるから、曲がりやすいニガ竹を使うが千葉県産のものが好まれる。棒状に小割りにした竹を手板という寸法の記された台の上で切り揃え、小刀で両端を削って鋭くし、中央部の頭頂に当る部分を削ぎ落とすなどの作業をする。できた中竹をコンロの火にあてて丸みをつけ、型板にはめて冷えるまで待つ。曲がった状態の中竹を先の側(がわ)竹にあけた爪穴に対角線に差し込む。組み終えると中心部の中竹が重なりあった部分を糸でしっかり結ぶ。小竹と小側骨は竹をヒゴに割ったもので、小側骨は型のくずれないようにした補助的なもの、小骨は笠を縫う際のおさえ骨となるものである。このような作業で1人1日20枚ほどの笠骨が作れ、できあがったものは10枚ずつ紐で結んで出荷を待つことになる。
笠縫い作業 笠縫いは笠骨に菅の葉を当てて縫いあげていく作業であるが、冬場の女の仕事とされてきた。必要な道具は長さ10センチ余りの笠針・布製の指ハメ・ハサミ・サシビラ・コキビラ・糸巻・笠コマ・これらを入れる笠ボンコなど、簡単な道具ですむ。 次に笠の内側に菅を巻く「仕掛け」の作業に入る。ハサンケともいう。中ぐらいの幅の菅の中央をサシビラで刺し、上下に引き裂いて2本にする。笠骨の頂上部に笠紙という和紙を当てて菅で押さえ、その周囲から外縁部へ向けてクモの巣のように菅を中竹に巻きつけていく。これが笠の内側から見える部分である。 次にノズケの作業に入る。子骨と呼ばれる竹ヒゴを糸で側骨に取り付け、その隙間に幅の広い親菅を差し込んでいく作業で、コマに巻いた糸で菅が抜けてこないようにしっかり止める。これを1周するまで続けると、外周に菅の端が取り付けられる。 いよいよ笠縫いとなるが、コクビラで菅の上下をこすって柔らかくしておく。笠針で一目一目外周から中心部への渦巻き状に縫っていくが、針は右手小指の指ハメで押しながら縫い、左手で針の先へ菅を送り込んでやる。縫うにしたがって菅が重なり合うので、不必要な菅を切り落とし、縫う間隔も均一にきれいに仕上げる必要がある。中心部まで縫い終えると、菅先を20センチほど残して切り揃えてできあがりとなる。 笠作りは手間がかかるため1人1日2枚ほどしかできないが、すべて家庭でできる手軽な仕事であり、冬仕事として非常に効率のよいものであった。しかも子供でも老人でも作業の一部を分業できる利点もあり、福岡町では笠縫い道具は嫁入り道具の一つになっていたほどである。また、嫁をもらうのに笠を上手に縫うことも大事な条件であったので、女の子は小さい時から手伝いをさせられたのである。
仲買商人と菅笠の販売 縫い上がった笠はお得意とする仲買人が買い付けて回り、大きな風呂敷に2メートルほど積み上げて背負って持ち帰った。仲買人は注文に応じた型と数量を取り揃えるが、自宅で頭巾という白布を頂上部に縫いつけたり、周囲に白布を巻いたりして出荷した。文化7年(1810)の記録によると、福岡町で菅と笠をあつかう商人が商家の半数以上を占める状況であった。江戸時代末期に砺波郡全体の輸出量は約210万枚におよび、販路も東北地方から九州まで、加賀笠は全国生産の7割に達したといわれている。 昔は船や馬で運ばれたが、鉄道が開通すると、菅笠を150〜200枚荷造りしたものが駅構内に何十本と並んでいたものである。しかし次第に需要は減り続け、近年は民謡踊りの笠や車のマスコット、正月の注連飾りなどに菅製品が出回っている。
竹細工の里 氷見市の市街地から約12キロ北上した所に竹細工の里、三尾(みお)と床鍋(とこなべ)の集落がある。県境を越えると石川県志雄(しお)町である。両集落は1.5キロほどの距離の隣村であり、宝達山丘陵にあるとはいえ三尾で海抜70メートルくらい、床鍋で150メートルくらいの低山性の丘陵地である。 集落の周辺にはいたる所に緩傾斜地を利用した棚田が造成されており、いわゆる千枚田の景観を残している。江戸時代は三尾の草高108石、床鍋の草高130石と、中規模の村落であったようである。しかし地すべり地帯でもあり、田地は相対的に不足した。集落の維持に必要な収益は副業として「竹ソウケ」( ソウケ作りは三尾・床鍋では、寺院を除いて一戸残らず作っていたそうで、この2集落に限らず近辺の老谷(おいだん)、葛葉(くずは)でも作られていたが、一般に三尾のソウケの名が知れわたっていた。 その発祥については定かでないが、床鍋の伝承によると五箇山から入植した人によって開村されたといわれている。その子孫の藤兵衛という者が前田家の金沢築城に際して、人夫が使用していた「丸ゾウケ」を見てその製法を習いうけ、床鍋の村民に教えて製造されたのが始まりであるという。次第に近辺にまで波及していったようである。 竹細工の原料である竹は地元のものを使ってきたため、昔はいたる所に竹薮が繁茂しており、県下一の面積を誇っていた。それもこの地が地すべり地帯であるために、根の張る竹が植えられた生活の知恵であったのかも知れない。そのころは真竹(まだけ)の皮がお金になったもので、子供達は夏休みの早朝に竹の皮を拾いに行ったものであるという。しかし30年余り前に竹に花が咲いて9割ほど壊滅してしまった。その後、県の奨励もあって植林がなされたため、今日、県道を通過しても竹薮はあまり目につかない状況である。
竹切り 竹ソウケに使われる竹は孟宗竹と真竹であり、ほとんどの家が自家栽培のものを利用した。孟宗竹は全般に固いが節は自由に曲がる性質があり、真竹は節が固くて丸くしにくい性質がある。ソウケは部分によってそれぞれの性質を生かした用いかたがなされる。10月下旬から11月一ぱいにツルカケノコギリで丁寧に切るが、これは大方男の仕事であった。ケンケンナタで枝をおろして家へ運び込む。作業場の大きさから物指を用いて11尺5寸(約3.5メートル)に切ったものを1コロとし、1本の竹から2コロ取れる竹を選んで切る。 竹の外側の節をきれいにそぎ取って大割りする。切り口にボンサマナタで十文字に割り込みを入れ、そこヘヤを入れてハタキ棒でたたいて四ツ割りにする。アテという木の台の上で身の内側の節もきれいにはつる。この荒割りしたものを4、5本に小割りして1センチほどの幅の割り竹にする。この小割りしたものをさらに皮の方と内側の身の方にヘギ分けるが、この皮ヘギが一番むつかしい作業で、4、5年の経験が必要だそうである。身の方は弾力がないのでソウケには使わず燃料にする。 皮の部分をさらに身肉と皮にヘギ分ける。真竹は皮竹を4本くらいに細かく「あさ割り」すると、1本の竹から80本くらいの細かい竹ヒゴができることになる。これがアミ竹となる。身の方はアテ板に使用する。孟宗竹はヒゴにしないでガワ(フチ)に用いる。これら竹を割る作業は全てボンサマナタを使用するが、これは刃を殺してあり、撫でても切れずむしろ錆付いているようなものである。以上の材料を用意するのが男の仕事とされてきた。
ソウケの編み作業 床鍋や三尾で作られるソウケは「米あげゾウケ」として昔から各家庭の必需品であった。茹でた素麺の水切りや、食品の収納や運搬にも使われた。大きさによつて八升あげ(大)・五升あげ(中)・三升あげ(小)の3種類あり、かつては一斗あげ(特大)も作られていた。容量が違えば当然長さや幅も違うが、作る要領は同じである。編むのは女の仕事とされており、農閑期を利用して主に冬の間に作られたが、竹をしまっておいて夏にも少し作った。作業は家の広間や作業場で行なう。ソウケの部分名は口のところをクチ、あるいはダシグチ、その反対側をソコ、縁部をガワという。 作業は皮付の孟宗竹(幅1センチ、厚さ5ミリ)で卵形の輪を作り、ソコの部分で合せ口を針金でしばる。真竹のヘギ落とした身の部分をタケボネとして、真竹をヒゴ状にしたアミダケでまん中の部分5センチほどを茣蓙目に編み、湾曲させながらガワに取りつける。続いてソコの方へ向って編む。その際にタタキパイで編んだ部分の目を詰め、キバサミでガワからはみ出すアミダケを切り落とす。ホネダケはクチの部分とソコの部分で4センチほど余裕をもたせて切り落とし、その部分を裏側へ回してアミダケの中へ通す。通りにくい場合はメサシを使う。 クチは真竹の皮の部分で編んでクチマキをして補強する。ガワの上に孟宗竹の皮の部分をつけ細く割ったもの6、7本をのせるが、これをササラという。ササラの外側に孟宗竹の皮の方のアテブチを、内側に身のアテブチを取付けて、針金でガワと一緒に数か所縛るとソウケができあがる。
ソウケの販売 ソウケは大中小の3個1組とし、20組で1コロ、あるいは1本と数える。数では60ゴオリともいう。また、大と特大で1組とし、これも20組で1コロ、この場合は40ゴオリである。大人が6人いる家で1カ月に28本作った記録が最高とされているが、普通は夫婦と子供3人で1カ月5〜7本作っている。 ソウケ編みは女の仕事とはいえ男も編むし、子供も簡単な部分を手伝わせられた。小学校3、4年生でクチマキ、6年生にもなるとササラ巻きができるようになり、家族全員でソウケ作りに励んできた村である。 氷見のソウケは真竹を使い、しかも身をほとんど使わず主に皮の部分で作るので長持ちすると評判がよく、氷見市内の数軒の卸屋を経て、販路は北陸一帯から長野県、北海道へも広がっていた。昭和20年ごろは20組1本が値段で10円であり、その年暮には30円くらいになり、23年ごろは100円、30年代は1万円近くになったという。 ソウケ作りには原材料から材料加工、製品化まで自家でこなすため収益性は非常に良い。しかし、プラスチック製品が出回るようになると卸屋も数を扱わないようになり、行商として売りに出るようになっている。
(にわ ゆうじゅ・福岡町歴史民俗資料館学芸員) −平成12年2月26日放送−
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